虐待を虐待された側から考察する
学問は疑うことから始まる。筋が違うという批判があろうが、ここから始めなければならない。虐待を受けることによって人は人間性を疑う。人間性を疑うことは、人間性について考え始めざるを得なくなる、ということ。普通の人が当たり前と思って行っていることも、被虐待者には考察の対象となる。ある人がある行動を行えば次に他の人が対応した行動を行う、という形の考察になる。これらを積み重ねていくだけである。極めて無味乾燥である。被虐待者にとって、それらの行動に対する個々人の感じ方というものは削ぎ落とされていく。単純にAならB、BならCのような対応関係である。被虐待者から見て、人々の間に人間性は最初から存在しないから。また、精神障害者の大半はなんらかの虐待を受けたことがあり、虐待がその人の精神障害の病因となっていることが疑われる(これには詳細な検討が必要であろう)。これは多分、あなたにとって知らない方が良い情報であるし、知りたくもないし、考えたくもないであろう。また、あなたは見当もつかないと言うかもしれない。しかし、これは特に発達学習論の観点から有益な情報であると推察される。
私は図らずも、教育学でいうところの悪魔の実験の被験者にされた。
精神障害は人格(喜怒哀楽など)の分離または抑圧である。ここでいう分離は心理学で解離と呼ぶ。笑い症は喜の人格の分離。躁病は怒の人格の分離。うつ病は哀の人格の分離。躁うつ病は怒と哀の人格の分離。ギャンブル依存症・アルコール依存症・薬物依存症は楽の人格の分離。統合失調症は創造性の人格の分離。自閉症は論理の人格の分離。多重人格は3つ以上の人格の分離。それらの発症のきっかけは何らかの虐待と推測される。
強迫観念は楽の人格の抑圧である。
潔癖症者は自分の体が汚いと思っている。
発達障害は、前提として、基本的信頼がないことに留意しよう。発達障害の子は、周りが教えようとしても、ただただ、親や先生から怒られるだけと解釈している。頭ごなしに怒られるから、怒られるから、そうしよう、と思っている。理解はしていない。怒られるから、片付けよう。怒られるから、勉強しよう。怒られるから、働こう。と思う。自分の意志で行っているわけではないから、そもそも、怒られるのは心外なのである。また、基本的信頼がないから、自分の利益になる行動はとれないし、自分のことはどうでもいいと思っている。弱みにつけこんで、周りは発達障害の子を利用するだろう。
仕事ができる人は、思考が自分の頭の中で完結するので、言葉で考える必要がないし、人の話を聞く必要もない。先先進めるが周りは置いて行かれるし、周りは迷惑する。仕事ができる人は話が通じないから。